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大虐殺記念館
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6時過ぎに起き、ニャガマベ(Nyagamabe、旧名ギコンゴロ(Gikongoro))に向かう。ニャガマベの近くのムランビ(Muranbe)にあるGenocide Memorial Centreを訪れることがルワンダ訪問の最大の目的と行ってもいい1994年の大虐殺に関する施設はルワンダ各地にあるが、ここは実際に虐殺の現場となった学校の教室に大量の遺体が保管されていることから重要な施設とされている。


 満員のバスは山間の道を縫うように登っていく。
段々畑となだらかな丘陵が美しく、スリランカ山間部の茶畑を思い起こさせる長閑な風景が続く。植物相は全く異なるが、日本の里山と田んぼの風景に似ていなくもない。
途中、オレンジとピンクの服を着せられて農作業に赴く囚人の群れを見かける。
フイエを出て30分ほどでニャガマベに到着。



ニャガマベからムランビへは3キロほどだが、バイタクがいなかったので尾根伝いの土の道を歩いていく。山道に入ったところですれ違った子供が、こちらを見て「シンジカガーワー」とボソっとつぶやく。現地の子供に日本人のサッカー選手の名前で呼ばれるのは定番だが、さすがマンUの選手ともなるとこんなところでも知られてる。



歩くこと3~40分でセンターに到着。
メインの建物の展示を時間をかけて読む。ドイツからベルギーに至る植民地支配の前史も含め、写真付きで結構分かりやすく解説してる。

そもそもツチとフツの区分は植民地時代以前は曖昧で誰も気にしておらず、ベルギーが分割統治の手法を用いる際にツチ・フツを区別して差別的に取り扱ったことが対立・迫害の淵源となったことはよく知られている。イギリスのインド支配等、分割統治は植民地支配の定番だが、インドのムスリム・ヒンドゥーの対立もはじめ現代に残した禍根は大きい。また、列強による一部民族の優遇が現代までの悲劇を招来した点は、イギリスの三枚舌外交が現在のパレスチナにまで影を落としている点とも共通する。ベルギーといえば、お隣のコンゴ民主(当時は国王レオポルドの私有地とされていたコンゴ自由国)でレオポルドが暴虐の限りを尽くした後にテキトーな国境線を引いてその後のコンゴ紛争の種を播いたりひどいものである。

アフリカの国の多くはいまだにポスト・コロニアルの呪縛から逃れられていない。
とりわけアフリカの失敗国家では、大抵の場合は植民地支配の負の遺産+国民の利益を一顧だにせず利権を私物化し、その利権を争ってクーデターと内戦と残虐行為を繰り返すクズな指導者層、という組み合わせである。お隣のウガンダでかつて気分次第で村々を回って数十万の人々を虐殺したイディ・アミンのような。

ルワンダに話を戻すと、虐殺の勃発後、数か月にも満たない短期間に80万人ともいわれる主にツチ族の犠牲者が政府軍と政府の指示を受けた各自治体、それに扇動された民衆にナタ、斧、ナイフ、AK47等で虐殺されるという未曽有の大惨事だった。記念館の展示は虐殺の経緯の詳細についてはなぜかあまり触れておらず、いささか唐突に「虐殺への国際的反応」「駐留していたフランス軍の大失態」等々のテーマに移る。語るに及ばずということかもしれない。

それにしても、大虐殺の時に現地に部隊を駐留させていたフランス軍に対する批判は非常に手厳しい。
記念館の敷地には「フランス軍は虐殺の最中にここでバレーボールをして遊んでいた」という記念碑があったりする。フランス軍が虐殺を認識して避難民の受入れを表明しながらも実際はほとんど何もしなかったことは事実だが、ここまで舌鋒が鋭いのは少し違和感を覚える。確かに対立の淵源を作ったのはベルギーだし、フランスは役立たずだったかもしれないが、実際に虐殺を立案して実行したのは他ならぬルワンダ人でありフツ族であったわけで。言い方は悪いが、過去の植民地支配のせいで苦労してるんだから問題は先進国が解決するのが当然、というアフリカ的な他力本願さを垣間見た気がした。


ガイドについて、緩やかな斜面に立ち並ぶレンガとコンクリートでできた教室を回る(ちなみに前情報と違って写真撮影は禁止だった)。ここは本来技術学校で、大虐殺の際に多くのツチ系住民が避難していたが、避難先で追いつめられてフツ系政府軍と現地のギコンゴロ県の自治体の連中に40,000~50,000人が虐殺されたという。4~5万人というと東京ドーム一杯分くらいだが、この狭い学校でそれだけ虐殺されたという事実に驚かされる。

各教室には防腐処理を施されミイラ化した遺体が積まれており、胃に来る独特の腐敗臭と防腐剤が綯い交ぜになった臭気が漂っている。女性や子供の遺体、頭や腕や足が欠損した遺体、頭蓋骨に髪がへばりついて残った遺体・・・周りの長閑な自然の風景とはに隔絶した、あまりに悲惨な光景が目の前に展開する。


帰り道、村の子供たちからムズング攻撃を受ける。ムズングとは現地の言葉で白人の意味だが、村の子供には非黒人であれば全部ムズングなのかもしれない。それにしてもさっきのシンジ・カガーワの少年とは大分認識レベルに隔たりがある。


上り坂がきついので、途中でバイタクにのってニャガマベの街まで戻る。バイタクもすべて無線を装備し、ヘルメットをかぶりビブスを着用していて、乗客もヘルメットをかぶらされる。アフリカ基準で言うとかなりきちんと管理されているというべきか。

ニャガマベは丘の上の街で、周りの丘には段々畑が広がる。



ウガンダ、ルワンダで至るところで見かけたColour Your Worldの店。何の店かはよく分からず。